はじめに:よくある誤解
M&Aによる株式譲渡を検討されるオーナー経営者から、「退職金をできるだけ多く取れば税金が安くなりますか?」というご相談をよくいただきます。
これは半分正解、半分誤解です。
退職金には強力な税制上の優遇措置があります。退職所得控除(勤続20年で800万円)があるうえ、控除後の残額をさらに1/2した金額が課税標準となります。しかし、退職金を増やし続けると、ある時点から逆に税負担が増えてしまいます。
ただし、M&Aの総額が一定で、退職金を増やした分だけ株式譲渡対価が減るという前提では、税負担が最小となる退職金の水準は明確に計算できます。
ポイントは、退職金全体の税率ではなく「退職金を増やした部分の税率」で見ることです。
退職所得900万円までは、退職金の増加部分の税率が株式譲渡税率20.315%より低いため有利です。
しかし900万円を超えると、退職金の増加部分の税率が約21.85%となり、株式譲渡税率を上回るため、増やしすぎると不利になります。
- 退職金の最適額は「退職所得=900万円」になる金額(勤続20年の場合:2,600万円)
- 最適額の公式:退職金 = 退職所得控除額 + 1,800万円
- 最適額より少なくても多くても、税負担は増える
- 退職金なしの場合と比較して、最適額の退職金設定で約291万円の節税(本事例)
M&Aでは「株式譲渡」と「役員退職金」の配分が重要
中小企業のM&Aでは、オーナー経営者が株式を譲渡するだけでなく、退任に伴って役員退職金を受け取るケースがあります。この場合、株式譲渡所得として受け取る部分と、退職所得として受け取る部分で税率構造が異なるため、両者の配分によって手取り額が変わります。
特に退職所得は、退職所得控除と1/2課税により税負担が軽くなる一方、一定額を超えると所得税の累進税率が上がるため、単純に「退職金を多くすればよい」とは言えません。
株式譲渡所得と退職所得の税率比較
株式譲渡所得税率(申告分離課税)
| 税目 | 税率 |
|---|---|
| 所得税 | 15% |
| 復興特別所得税(所得税×2.1%) | 0.315% |
| 住民税 | 5% |
| 合計 | 20.315% |
上場・非上場を問わず、株式等の譲渡所得はこの一律20.315%で課税されます。
退職所得の実効税率(1/2後)
退職金1円を増やしたとき、実際に課税される税率(限界実効税率)は次のとおりです。
退職金が退職所得控除を超えると、超過額の1/2が課税標準(退職所得)となります。その退職所得が累進税率のどのブラケットに当たるかで、実効税率が変わります。
補足説明
退職所得は1/2課税なので、
「所得税率+復興税率+住民税率」を足してから、最後に1/2して、
株式譲渡税率 20.315%と比べれば良い。その分岐点が退職所得金額900万円です。
| 退職所得の範囲 | 対応する所得税率 | 退職金の限界税率(所得税+復興税+住民税) | 株式譲渡との比較 20.315%より有利か? |
|---|---|---|---|
| 〜195万円 | 5% | (5%×1.021+10%)×1/2=7.55% | ◎ 有利 |
| 195万〜330万円 | 10% | (10%×1.021+10%)×1/2=10.11% | ◎ 有利 |
| 330万〜695万円 | 20% | (20%×1.021+10%)×1/2=15.21% | ◯ 有利 |
| 695万円超〜900万円以下 | 23% | (23%×1.021+10%)×1/2=16.74% | ◯ 有利 |
| 900万円超〜1,800万円以下 | 33% | (33%×1.021+10%)×1/2=21.85% | ✕ 不利 |
| 1,800万円超〜4,000万円以下 | 40% | (40%×1.021+10%)×1/2=25.42% | ✕ 不利 |
| 4,000万円超 | 45% | (45%×1.021+10%)×1/2=27.97% | ✕ 不利 |
退職所得が900万円を超えると、退職金の限界実効税率(21.85%)が株式譲渡税率(20.315%)を上回ります。
この900万円が、退職金を増やすことが有利か不利かの分岐点です。
所得税率表 参考
| 課税所得金額 | 税率 | 控除額 | 速算式 |
|---|---|---|---|
| 195万円以下 | 5% | 0円 | A × 5% |
| 195万円超〜330万円以下 | 10% | 97,500円 | A × 10% − 97,500 |
| 330万円超〜695万円以下 | 20% | 427,500円 | A × 20% − 427,500 |
| 695万円超〜900万円以下 | 23% | 636,000円 | A × 23% − 636,000 |
| 900万円超〜1,800万円以下 | 33% | 1,536,000円 | A × 33% − 1,536,000 |
| 1,800万円超〜4,000万円以下 | 40% | 2,796,000円 | A × 40% − 2,796,000 |
| 4,000万円超 | 45% | 4,796,000円 | A × 45% − 4,796,000 |
A=課税所得金額 ※復興特別所得税(所得税額×2.1%)は別途加算
ポイントは、退職金全体の税率ではなく「退職金を増やした部分の税率」で見ることです。
退職所得900万円までは、退職金の増加部分の税率が株式譲渡税率20.315%より低いため有利です。
しかし900万円を超えると、退職金の増加部分の税率が約21.85%となり、株式譲渡税率を上回るため、増やしすぎると不利になります。
最適退職金の求め方(公式)
課税標準となる退職所得がちょうど900万円になる退職金の額が「最適額」です。
退職所得 = (退職金 − 退職所得控除額)× 1/2 = 900万円
∴ 退職金 = 900万円 × 2 + 退職所得控除額
= 1,800万円 + 退職所得控除額
勤続年数別の最適退職金
| 勤続年数 | 退職所得控除額 | 最適退職金 |
|---|---|---|
| 10年 | 400万円 | 2,200万円 |
| 15年 | 600万円 | 2,400万円 |
| 20年 | 800万円 | 2,600万円 |
| 25年 | 1,150万円 | 2,950万円 |
| 30年 | 1,500万円 | 3,300万円 |
※退職所得控除:勤続20年以下は40万円×年数(最低80万円)、20年超は800万円+70万円×(年数−20年)
勤続年数別の最適退職金の計算式 (退職所得金額-退職所得控除)X1/2=退職所得金額900万円
具体的な計算例
前提条件
| 項目 | 金額 |
|---|---|
| M&Aによる収入合計 | 1億2,000万円 |
| 株式の簿価(取得費) | 500万円 |
| M&A仲介手数料(譲渡費用) | 1,000万円 |
| 勤続年数 | 20年 |
| 退職所得控除 | 800万円 |
仲介手数料は株式譲渡の譲渡費用として控除します。
パターンA:退職金なし(全額株式譲渡)
| 計算 | 金額 |
|---|---|
| 株式譲渡収入 | 120,000,000円 |
| 取得費 | △5,000,000円 |
| 譲渡費用(仲介手数料) | △10,000,000円 |
| 株式譲渡所得 | 105,000,000円 |
| 税額(×20.315%) | 21,330,750円 |
パターンB:退職金2,600万円(最適額)
退職所得の計算
| 計算 | 金額 |
|---|---|
| 退職金 | 26,000,000円 |
| 退職所得控除 | △8,000,000円 |
| 1/2後の退職所得(課税標準) | 9,000,000円 |
退職所得にかかる税額
| 税目 | 計算 | 税額 |
|---|---|---|
| 所得税 | 195万×5%+135万×10%+365万×20%+205万×23% | 1,434,000円 |
| 復興特別所得税 | 1,434,000×2.1% | 30,114円 |
| 住民税 | 900万×10% | 900,000円 |
| 退職所得税計 | 2,364,114円 |
株式譲渡所得の計算
| 計算 | 金額 |
|---|---|
| 株式譲渡収入(1億2,000万−退職金2,600万) | 94,000,000円 |
| 取得費 | △5,000,000円 |
| 譲渡費用(仲介手数料) | △10,000,000円 |
| 株式譲渡所得 | 79,000,000円 |
| 税額(×20.315%) | 16,048,850円 |
合計税額:2,364,114円+16,048,850円=18,412,964円
パターンC:退職金5,000万円(過大)
退職所得の計算
| 計算 | 金額 |
|---|---|
| 退職金 | 50,000,000円 |
| 退職所得控除 | △8,000,000円 |
| 1/2後の退職所得(課税標準) | 21,000,000円 |
退職所得にかかる税額
| 税目 | 計算 | 税額 |
|---|---|---|
| 所得税 | 195万×5%+135万×10%+365万×20%+205万×23%+900万×33%+300万×40% | 5,604,000円 |
| 復興特別所得税 | 5,604,000×2.1% | 117,684円 |
| 住民税 | 2,100万×10% | 2,100,000円 |
| 退職所得税計 | 7,821,684円 |
株式譲渡所得の計算
| 計算 | 金額 |
|---|---|
| 株式譲渡収入(1億2,000万−退職金5,000万) | 70,000,000円 |
| 取得費 | △5,000,000円 |
| 譲渡費用(仲介手数料) | △10,000,000円 |
| 株式譲渡所得 | 55,000,000円 |
| 税額(×20.315%) | 11,173,250円 |
合計税額:7,821,684円+11,173,250円=18,994,934円
3パターンの比較
| 退職金なし | 退職金2,600万円(最適) | 退職金5,000万円(過大) | |
|---|---|---|---|
| 退職所得税 | 0円 | 2,364,114円 | 7,821,684円 |
| 株式譲渡所得税 | 21,330,750円 | 16,048,850円 | 11,173,250円 |
| 合計税額 | 21,330,750円 | 18,412,964円 | 18,994,934円 |
| 最適案との差額 | +2,917,786円 | -(最小) | +581,970円 |
最適額(2,600万円)の退職金を設定することで、退職金なしの場合と比べて約291万円の節税が実現できます。
一方、5,000万円という過大な退職金は、最適案より約58万円も税負担が増えてしまいます。
なぜ「退職金は多いほど有利」ではないのか
退職所得が900万円を超えると、所得税の適用税率が23%から33%に跳ね上がります。
退職金1円を増やしたとき——
- 900万円以下のゾーン:退職所得の限界実効税率(最大16.74%)< 株式譲渡税率(20.315%) → 株式譲渡所得を減らして退職金に振り替えた方が有利
- 900万円超のゾーン:退職所得の限界実効税率(21.85%〜)> 株式譲渡税率(20.315%) → 退職金に振り替えるほど税負担が増える
税負担が最小となるのは、退職所得がちょうど900万円になる点だけです。
注意事項
退職金の相当性
退職金は「不相当に高額な部分」については法人税上の損金不算入となります(法人税法34条)。また、役員退職金として認められるためには、在職中の功績・役職・報酬等を総合的に勘案した「功績倍率法」等による合理的な算定根拠が必要です。税務上の最適額と法人税上の適正額が一致するとは限りませんので、あらかじめ顧問税理士にご相談ください。
勤続年数の確認
退職所得控除の計算の基礎となる「勤続年数」は、実際の在任期間(1年未満は切り上げ)によります。また、同一法人から過去に退職金を受け取っている場合、前回退職後の期間のみが通算される場合があります(所得税法31条)。
買手側との交渉
M&Aにおける退職金の支払いは、買手側のデューデリジェンスや最終契約交渉に影響を与えることがあります。税務上の最適額と交渉上の現実的な着地点をすり合わせながら進めることが重要です。
2027年以降の税制改正リスク
なお、2027年以降の株式譲渡については、防衛特別所得税や高額所得者に対する追加的な税負担の影響により、上記の単純比較だけでは判断できない場合があります。特に大型M&Aでは、実行時期を含めた個別試算が必要です。
まとめ
M&Aにおける株式譲渡と退職金の税負担最適化のポイントをまとめます。
- 退職金の最適額は「退職所得=900万円」になる金額(勤続20年の場合:2,600万円)
- 最適額の公式:退職金 = 退職所得控除額 + 1,800万円
- 最適額より少なくても多くても、税負担は増える
- 退職金なしの場合と比較して、最適額の退職金設定で約291万円の節税(本事例)
M&Aを検討されているオーナー経営者の方は、ぜひ早い段階で専門家にご相談ください。株式譲渡のスキーム設計・退職金の適正額算定・税務申告まで、当事務所が一貫してサポートいたします。
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